木村洋太は、横浜で生まれ育ち、学生のころから野球に親しんできた。就職活動をしていた2000年代半ば、球界再編問題が起きた。当たり前にあったプロ野球の球団が、経営の事情で姿を変えることもある——そのことを、当時はじめて知ったという。好きな野球をより良くしたい。大きな交通事故をきっかけに、その思いを先延ばしにしないと決め、2012年、誕生から間もない横浜DeNAベイスターズに加わった。いま代表取締役社長として、球場のにぎわいを街へと染み出させる構想を描く。プロ野球の主催試合が行われるのは、年間およそ70日。試合のない日々に、球団は街とどうつながっていくのか——まちづくりの観点から、木村に話を聞いた。
第1章:球場を満席にする
球場のにぎわいは、その70日あまりの試合日に集中する——それが長らくの前提だった。2011年、横浜スタジアムの座席稼働率は50.4%。客席の半分が空いていた。
横浜DeNAベイスターズは『コミュニティボールパーク』化構想を旗印に、多面的な施策を重ねていく。2011年に約110万人だった年間動員は、2025年には主催71試合で236万411人に達した。半分が空いていた客席は、いまや98.9%が埋まる。
満員の横浜スタジアム。2026年6月7日、「steer 2026 machi-zuku DAY」が開催された。
集客施設の稼働率を上げる——このフェーズは、まちづくりの実務者にも馴染みがあるはずだ。勝敗によって客足は揺れる。だからこそ、来場そのものを楽しめる体験をどう積み重ねるかが問われる。
満席を生んだのは、勝利を目指しながら、勝敗だけに左右されない体験を積み重ねる設計だった。「勝つことは一番のファンサービス。ですが、勝つことだけがファンサービスではない。」と木村は言う。強いチームでも4割は負ける。勝利を追いながら、負けた日に球場で過ごした時間も、楽しかったと思えるものにする。「3時間も球場にいてくださる方を、何も楽しくなかった1日にはしたくない」。勝った日も負けた日も、来場そのものを体験にする——その積み重ねが、球場を変えた。2025年には1試合平均で、およそ3万3,000人が足を運んだ。
横浜DeNAベイスターズ代表取締役社長の木村洋太氏
かつてのプロ野球は、放映権収入に支えられたビジネスだった。球団はそこから、観客を「顧客」として捉え直す発想へと舵を切る。木村は当時を振り返り、「横浜スタジアムならではのものは、みかん氷くらいだったんじゃないかと思います」と話す。長く親しまれてきた名物はあった。だが、席の種類や飲食、試合前後の演出まで含めた来場体験の選択肢は、いまほど多くなかった。
観戦のための席が並ぶスタジアムに、仲間と過ごせるグループ席を加えていく。球場ならではのオリジナルグルメを開発する。
球団は、こうした工夫を含むさまざまな施策を重ね、2016年に黒字へ転じた。
客席が満ちていくなかで、木村は球場の中の体験を磨く一方、その熱を外へ広げる道も考えていた。部長時代から、その「外」を口にしてきた。
木村には、いまも残る景色がある。2016年、球団は初めてクライマックスシリーズに進出した。横浜スタジアムと一体で経営を始め、観客動員も大きく伸びていた。その手応えは、本拠地だけのものではなかった。ビジターの東京ドームに駆けつけたファンで、スタンドの左側半分がチームカラーの青に染まった。「東京ドームがあんな光景になるのを、初めて見た。チームが変わって、ファンの方も共感してくれている。こういう景色になるんだと体感したのが、あのタイミングでした」。
では、なぜ球場の外なのか。横浜スタジアムのキャパシティは3万人ちょっとだ。3万人の客席が埋まるなかで、木村はその盛り上がりをより多くの人へ届けたいと考えた。社内に自然と生まれたのが、"染み出す"という言葉だった。
関内に暮らす人にとって、球場の歓声は街の音として届く。球団事務所も、球場のすぐ近くにある。ナイターの時間に会議室にいると、その歓声が聞こえてくるという。街と球場は、それほど近い。だが、その熱気は試合のある日に限られる。年に70日あまりの活気を、残りの日々にも届けられるか。
球場の中の作り込みに成功しても、その活気が周辺に広がるわけではない——「中」の充実と「外」への展開には、別の取り組みがいる。
2021年に社長へ就任した木村は、にぎわいを染み出させることを、3つの柱の一つに掲げた。
第2章:球場の外ににぎわいを広げる
2026年3月19日、横浜スタジアムの隣に、常設型ライブビューイングアリーナ「THE LIVE Supported by 大和地所」(以下、THE LIVE)が開業した。球団自らが企画・運営する、試合のない日やオフシーズンにも営業する施設だ。
約2,800平方メートル、3つのフロア。幅約18メートル、高さ約8メートルの大型LEDビジョンが、空間を見下ろす。1階は、9つの飲食店がビジョンを囲むフードホール。2階には球団グッズの旗艦店が入る。3階はテラス付きのバーベキューレストランだ。営業は午前11時から午後11時まで、試合のない日も店を開ける。野球だけでなく、バスケットボールやサッカーなど様々なスポーツの試合をはじめ、音楽ライブ等のエンターテインメントコンテンツを放映する。
2026年3月に開業したTHE LIVE Supported by 大和地所
旧横浜市役所の跡地の再開発に、親会社である株式会社ディー・エヌ・エーが参画した。再開発では、箱を用意し、運営はテナントに委ねるのが通例だ。だが、外から誘致した店が、球場の熱気と連動する保証はない。
その課題に対し、球団はテナントとして入居することを決めた。
試合のある日もない日も、自らの手で企画・運営を担う。球場の活気を試合のない日にも届けることを、自らの事業として始めた。
ホーム試合がある日は、年間の約2割にとどまる。木村は2019年の時点で、残りの日々のにぎわいづくりを口にしていた。だからこそ球団にとっては、試合日だけに頼らず、球場の熱を街へ広げる接点を増やすことが課題になる。街に向けた視線は、部長時代から変わらない。社長就任後には、その視線を「にぎわいを染み出させる」という3つの柱の一つに掲げた。横浜市が2020年に策定したエリアコンセプトプランにも、試合のない日を含めた集客力の強化が書き込まれている。
THE LIVEのコンセプトは「もうひとつのスタジアム」だ。
その原型は、早くからあったと木村は話す。「2012年の当時から、試合の日に場外でビアガーデンのようなことをやっていた。最初から最後まで試合を見る気がなくても、ちょっと寄れる。球場から漏れてくる熱気を、モニター越しでも楽しめる場所です」。その発想を、再開発のなかで常設の施設へと広げた。駅の改札を降りてすぐの場所にTHE LIVEがあり、野球に関心のない人にも、映像を通じて球場の盛り上がりが伝わる。それを、街へ染み出していく起点にしたい——木村はそう話す。
もうひとつのスタジアムへ
開業から間もないTHE LIVEを訪ねた。入口の前ではイベントの音響準備が進み、家族連れが行き交う。外からでも巨大スクリーンの上部が見え、野球ではないスポーツの映像が流れていた。球場へまっすぐ向かうのではなく、なんとなくその前で足を止める人がいる。ビジターゲームの日も、ここでは試合が映る。その光景こそ、木村が思い描くものだ。「"今日はハマスタじゃないけれど、どこかでベイスターズがやっている"と伝わる。それを、この街の文化にしていきたい」。
球団が自ら施設を運営し、球場の外へ踏み出す。試合のない日の活気を、誰かに任せず、自分たちの手でつくる——そこにTHE LIVEの意味がある。
球場を満席にし、その外へ。だが、THE LIVEの周辺が終着点ではない——横浜市、神奈川県という地域全体に、プロスポーツチームはどう関わるのか。
第3章:プロスポーツチームのまちづくり
THE LIVE周辺の関内だけが、球団の活動の場ではない。横浜DeNAベイスターズの名前は、スタジアムから離れた場所にも現れる。
球団がまちづくりプロジェクト「I☆YOKOHAMA」を掲げたのは、2014年のことだ。横浜市との協定として結実したのは、2017年だった。球場でファンを迎えることを起点にしてきた球団は、来場しない人々にどう届くのか。
五月の連休、関内を歩いた。駅の南口を出ると、BASEGATE横浜関内の巨大なビルがそびえ、ベイスターズの色が街のあちこちに広がっている。街灯のフラッグには、選手の写真が載っていた。ベイスターズ通りの古い大衆居酒屋は、店先がいつのまにかチームカラーの青に染まっていた。一方、駅の北口へ回ると、その気配はまだ薄い。球団の存在は、関内を中心に、少しずつ周囲へにじみ出している。
ベイスターズの装飾が施されたJR関内駅
北海道日本ハムファイターズは、北広島市にボールパークを新設し、周辺のまちづくりを一体で進めた。地方型のアプローチには、都市型にはない自由度がある。
だが、横浜は「すでにある都市」だ。
木村は、横浜スタジアムの立地そのものに、意味を見いだす。「関内は、もともと横浜の中心地で、行政の中心でもあった。その街の中心に、駅から至近の球場がある。これは最大限に生かしたい」。スタジアムに至る日本大通りは、ペリー来航のあと、日本で初めて造られた西洋式の街路だという。その突き当たりにある横浜公園は、もともと「彼我公園」と呼ばれた。日本人と外国人が交流する場として設けられた場所だ。連休の公園は緑が濃く、球場を囲む木々のあいだを、家族連れがゆっくりと歩いていた。「2012年から、横浜スタジアムを"コミュニティボールパーク"にしようと言ってきました。コミュニケーションを育む場です。歴史をたどっても、これほどふさわしい場所はない」。
横浜スタジアムへ続く日本大通り
現在の球場につながる横浜公園球場は、1929年、関東大震災の復興事業のなかで整備された。1934年には、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックを擁する米大リーグ選抜が来日した時代でもある。木村は、この場所を引き継ぐことの意味を語る。「建物の老朽化に加えて、急激に進行する温暖化への対応も必要な状況で、今後何年使えるかという議論はあります。それでも、使える限りはこの場所で、という思いは強い」。
日本ハムが郊外に新設したのに対し、横浜は都市の中にある。「ちょうど横浜スタジアムを増築しようとしていた頃、隣の街区とその奥が再開発になると聞いた。こことうまく連携すれば、都市型のボールパークタウンができるんじゃないか」。新しい場所に新しいものを建てるのとは違う。古い街並みに溶け込ませる難しさはあるが、そこにこそ価値があると木村は考える。「歴史は、お金では買えないですから」。
関内が抱える課題も、その背景にある。横浜の発祥地であり行政の中心だったこの街は、2020年、市庁舎がみなとみらい地区へ移転した。分散していた約6,000人規模の市職員が新庁舎に集約され、行政機能は関内を離れた。建築家・村野藤吾が設計したモダニズム建築の旧市庁舎は、戦後の建造物として初めて横浜市認定歴史的建造物に認定された。いまはホテルへと姿を変えている。この一帯の求心力をどう保つか——それは横浜市自身の課題でもあった。
旧横浜市庁舎行政棟を活用したホテルとBASEGATE横浜関内
下関から横浜へ
なぜ、球団は街に寄り添おうとするのか。木村の答えは、ベイスターズの歩んだ歴史に根ざしている。球団は1949年に下関で創設され、1950年に大洋ホエールズとしてセ・リーグに加わった。本拠地を移しながら横浜へたどり着いた歴史を、木村は「街のチームになりきれていなかった」と振り返る。DeNA参入をめぐっては、新潟への移転が噂されたこともある。その後も木村は言う。「この大都市・横浜でずっとやっていきたい」。12球団しかないプロ野球チームがいなくなれば、地元にとって大切なものが失われる。その認識が、地域に寄り添い、一体化していく議論につながった。社内でそう話されるようになったのは、2014年、15年ごろだ。
ローカルに根ざしながら、広く開く。それは矛盾しない。木村は以前、自分たちのアイデンティティは横浜というローカルにあるが、愛されるマーケットは全国、そしてグローバルでありたい、と語っている。地元に深く根を張ることが、かえって遠くの人を惹きつける——その視点が、街への関わりの根にあると読み取れる。
木村が見据えるのは、球場の中だけではない。まずはチームが強くなり、優勝して、観客が集まること。その光景を、なお追い続けている。動員数自体は1998年を超えている。それでも、「98年のスタンドが揺れていたような感覚は、まだ定性的には超えられていない」と話す。横浜スタジアムが、木村の言う「心震える体験」のできる場所になれば、遠くからでも一度は行きたいと思える街になる。そのためには、球場だけでなく、公園や周辺の商業施設とも連携し、ここでしか得られない楽しみをつくっていく必要がある。球場に足を運ばない人にも、横浜のどこかでベイスターズに出会う。その接点を、少しずつ増やしていく。
スタジアムを満たし、その外へ広げ、街に溶け込ませていく。木村が見ているのは、横浜の内側だけではない。その視線は、次の言葉にも表れている。
「日本中から、海外からも、一度は横浜スタジアムに行きたいと思える。そんな街にしていければ」。