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横浜開港の歴史|黒船来航・条約・その後の発展までわかりやすく解説

作成者: steer株式会社|Aug 28, 2026, 10:21:23 AM

横浜開港について

 

出典:PIXTA

 

大さん橋やみなとみらいの夜景を眺めたことがある人は多いでしょう。しかし、この港町がおよそ160年前、小さな漁村から一気に国際貿易の窓口へと姿を変えたことを知っている人は意外と少ないかもしれません。

 

横浜はいつ開港したのか

横浜港が開港したのは、1859年7月1日(安政6年6月2日)のことです(※)。この年、江戸幕府はアメリカやオランダなど複数の国と結んだ通商条約にもとづき、横浜に外国船の出入りを認める「開港場」を設けました。

 

日本ではこの日にあわせた式典は特に行われませんでしたが、後年になって横浜市はこの日を「開港記念日」と位置づけ、現在も毎年6月2日前後に「横浜開港祭」が開催されています。

 

※”横浜市「横浜港の歴史(変遷図、年表)」”参照

 

なぜ横浜が開港地に選ばれたのか

当初、幕府が開港地として想定していたのは、東海道の宿場町として栄えていた神奈川宿でした。しかし、多くの旅人が行き交う東海道沿いに開港場を置くと、外国人と地元住民との間でトラブルが起きやすくなるという懸念がありました(※)。

 

そこで幕府は、神奈川宿から少し離れた横浜村を開港場として整備する方針に切り替えます。人の往来が少ない立地であったことが、横浜が開港地として選ばれる決め手の一つになったといえるでしょう。

 

※”三井住友トラスト不動産「このまちアーカイブス-横浜」”参照

 

開港前の横浜はどのような場所だったのか

開港前の横浜は、砂州の上に広がる小さな漁村でした(※)。人家もそれほど多くなく、農業や漁業を中心とした暮らしが営まれていたと伝えられています。この静かな漁村が、開港をきっかけに一気に国際都市への道を歩み始めたことを思うと、横浜のまちの成り立ちの大きさが伝わってくるのではないでしょうか。

 

※”船の科学館「日米修好通商条約により、安政6年6月2日に横浜港開港」”参照

 

黒船来航(ペリー来航)

 

出典:PIXTA

 

「黒船来航」と聞くと、多くの人は歴史の教科書の一場面を思い浮かべるでしょう。しかし、この出来事が具体的にどのような経緯で横浜開港につながったのかまでは、案外知られていないかもしれません。

 

ペリー来航の背景

1853年(嘉永6年)、アメリカ東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリーが軍艦を率いて浦賀に来航しました(※)。当時のアメリカは、太平洋を渡る捕鯨船や通商船のための補給地を求めており、鎖国政策を続ける日本に開国を強く迫る立場にありました。ペリーの来航は、その後の日本の外交方針を大きく揺るがすきっかけになります。

 

※”横浜市「みなとへGO!横浜港の歴史(1)」”参照

 

黒船来航が日本に与えた衝撃

巨大な蒸気船を目の当たりにした当時の人々にとって、黒船の来航は大きな驚きをもって受け止められたと考えられています。長く続いた鎖国政策のもとで、海外の軍事力や技術力を直接目にする機会がほとんどなかったことも、衝撃の大きさにつながった一因といえるでしょう。この出来事をきっかけに、幕府内では開国か鎖国継続かをめぐる議論が一段と活発になっていきます。

 

日米和親条約の締結

ペリー来航の翌年である1854年(安政元年)、幕府はアメリカと「日米和親条約(神奈川条約)」を締結しました(※)。この条約により、下田と箱館(現在の函館)の2港が開かれることになりましたが、この時点では横浜の開港はまだ定められていません。とはいえ、この条約が日本の開国の第一歩となり、その後の横浜開港へとつながる道筋をつくったことは間違いないでしょう。

 

※”横浜市「横浜港の歴史(変遷図、年表)」”参照

 

日米修好通商条約

 

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日米和親条約によって開国の扉が開かれたあと、貿易の枠組みを定める交渉が本格的に始まります。その到達点となったのが、横浜開港を決定づけた「日米修好通商条約」です。

 

条約が結ばれた背景

1856年(安政3年)、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが下田に着任し、通商条約の交渉を開始しました(※)。翌1857年には「下田協約」が結ばれ、長崎の開港が先行して決まりましたが、この段階ではハリスが望んだ開港地に神奈川や横浜の名前はまだ含まれていませんでした。交渉が進むなかで、最終的に神奈川(横浜)の開港が条約に盛り込まれていきます。

 

※”船の科学館「日米修好通商条約により、安政6年6月2日に横浜港開港」”参照

 

条約の基本的な内容

1858年(安政5年)に結ばれた日米修好通商条約では、箱館・新潟・神奈川・神戸・長崎の開港が定められました(※)。あわせて、外国人が日本国内で自由に貿易を行える体制や、領事裁判権(治外法権)など、日本にとって不利な条件も含まれていた点は見逃せません。この条約はアメリカだけでなく、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の内容で結ばれ、「安政の五カ国条約」と呼ばれています。

 

※”横浜市「横浜港の歴史(変遷図、年表)」”参照

 

横浜開港が定められた経緯

条約上の開港地は「神奈川」とされていましたが、実際に港が整備されたのは神奈川宿から少し離れた横浜村でした。また、条約ごとに定められた開港日にも違いがあり、日米修好通商条約では1859年7月4日が開港日とされていましたが、他国との条約の内容もあわせ、最も早い日付である7月1日(安政6年6月2日)に横浜港が開かれることになりました(※)。

 

※”横浜開港資料館「開港と国際交流」”参照

 

横浜開港がもたらした変化

 

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開港からわずか数年のうちに、横浜には外国商館や領事館が次々と姿を現しました。小さな漁村だったまちが、どのように国際貿易都市へと変わっていったのか見ていきましょう。

 

外国人居留地の誕生

開港後、横浜には外国人が集まって暮らす「外国人居留地」が設けられました。居留地には各国の商館や領事館が建ち並び、日本人と外国人が同じ地域で生活する独特の空間が生まれます。この居留地の仕組みは長く続きましたが、1899年(明治32年)に撤廃され、以降は外国人も国内のどこにでも住めるようになりました(※)。

 

※”横浜開港資料館「横浜の歩みと開港資料館」”参照

 

生糸貿易を中心とした国際貿易の発展

開港後の横浜港では、生糸をはじめとする輸出品の取引が活発に行われるようになりました。当時の日本にとって生糸は重要な輸出品のひとつであり、横浜はその集散地として貿易額を伸ばしていきます。港を中心に商社や金融機関が集まり、横浜はやがて日本を代表する貿易都市としての地位を築いていくことになりました。

 

西洋文化・技術の流入

貿易の拠点となった横浜には、ガス灯や洋風建築、鉄道といった当時の最新技術や文化も次々ともたらされました。居留地を中心に洋菓子店や写真館など、それまで日本になかった業種の店舗も登場します。こうした異文化との接触は、横浜だけでなく日本全体の近代化に少なからぬ影響を与えたと考えられています。

 

横浜開港を物語る主な史跡と出来事

 

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横浜の街を歩くと、開港の歴史を伝える建物や史跡にいくつも出会うことができます。ここでは、なかでも代表的な3つのスポットを紹介します。

 

開港の象徴となった象の鼻地区

現在の大さん橋の付け根付近にある「象の鼻地区」は、横浜港発祥の地とされる場所です。開港当時、ここには東波止場(イギリス波止場)と西波止場(税関波止場)という2つの波止場が建設されました(※)。その後、波止場の形が弓なりに変化したことから「象の鼻」という愛称で呼ばれるようになり、開港150周年にあたる2009年には「象の鼻パーク」として整備されました。

 

※”横浜市「象の鼻地区 歴史」”参照

 

横浜開港資料館に残る記録

山下公園の近くにある「横浜開港資料館」は、幕末から昭和初期までの横浜の歴史資料を約25万点以上所蔵する施設です(※)。1981年(昭和56年)に、日米和親条約が結ばれた地に建つ旧英国総領事館の建物を活用して開館しました。中庭にある「玉楠の木」は、ペリー来航時の記録にも描かれた木として、開港のシンボル的な存在になっています。

 

※”横浜開港資料館「横浜の歩みと開港資料館」”参照

 

横浜開港記念会館と開港記念日

関内地区に建つ「横浜市開港記念会館」は、横浜港開港50周年を記念し、市民からの寄付によって1917年(大正6年)に建てられた公会堂です(※)。関東大震災で一度被災しましたが、その後再建され、1989年(平成元年)には国の重要文化財に指定されました。この開港50周年事業がきっかけとなり、現在の「開港記念日(6月2日)」も市民の間に定着していったといわれています。

 

※”横浜市開港記念会館「施設紹介」”参照

 

横浜開港の歴史から見える意義

 

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ここまで見てきた開港の経緯を振り返ると、単なる一地方港の話にとどまらない大きな意味が見えてきます。

 

日本の近代化における役割

横浜開港は、鎖国から開国へという日本の外交方針の転換を象徴する出来事の一つとして位置づけられています。貿易を通じて海外の技術や制度が流入したことは、その後の明治維新や日本の近代化を進める土台の一つになったと考えられています。もちろん、開港の影響を横浜だけの出来事として捉えるのではなく、日本全体の変化とあわせて理解する視点も大切でしょう。

 

まちづくりの視点から見た横浜開港

開港によって生まれた居留地や貿易港の骨格は、現在の横浜のまちなみにも受け継がれています。実際、今も横浜のまちづくりの現場では、歴史的な建造物を保存・活用しながら新しい開発を進める自治体職員やデベロッパーの姿があります。開港という出来事を、単なる過去の歴史としてだけでなく、今のまちの姿につながる一つの起点として見てみると、まちづくりの奥行きがより感じられるのではないでしょうか。

 

横浜開港の歴史を学べるスポット

 

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開港の歴史の意義を理解したところで、実際にその足跡をたどれる場所を訪ねてみるのもよいでしょう。

 

博物館・資料館で学ぶ

横浜開港資料館や横浜市開港記念会館では、開港当時の資料や建物そのものを通じて歴史を学ぶことができます。あわせて、横浜都市発展記念館では明治以降のまちの発展史を、写真や模型を通じてより詳しく知ることができます。いずれも山下公園や日本大通り周辺に集まっているため、まとめて訪れやすいのも魅力です。

 

史跡巡り・まち歩きで学ぶ

象の鼻パークや大さん橋、日本大通りといったエリアを歩くと、開港当時の名残を感じられる建物や案内板に数多く出会えます。山下公園や赤レンガ倉庫まで足を延ばせば、開港から現代までの横浜の変化を、まち歩きを通じて体感することができるでしょう。史跡ごとに設置された解説板をたどりながら歩くと、より理解が深まります。

 

横浜開港の歴史を理解してまちの成り立ちを読み解こう

 

出典:PIXTA

横浜開港は、黒船来航と日米修好通商条約という二つの転換点を経て実現し、その後の外国人居留地や生糸貿易の発展を通じて、横浜を国際貿易都市へと押し上げました。

 

一方で、開港がもたらした急速な変化にどう向き合うかは、当時の人々にとっても大きな課題だったはずです。史跡や資料館を訪ねながら、開港の歴史が今の横浜というまちをどう形づくったのか、ぜひ自分の目で確かめてみてください。