福島県郡山市を本拠地とするプロバスケットボールクラブ、福島ファイヤーボンズ。東日本大震災を原点に、行政と深く組んで地域に根を張ろうとするその歩みを、西田創社長への取材から前後編でたどる。
前編では、市の体育館の更新に、クラブが当事者として加わるまでを追った。後編は、整ったアリーナをどう収益に結びつけるか。そして、震災を原点とする歩みを、街の賑わいへどうつなげていくのかを追う。
福島ファイヤーボンズは、郡山市を本拠地とするクラブだ。所属はB.LEAGUE 2部。拠点は宝来屋ボンズアリーナ。市の体育館をPFIで改修した施設である。だが、整った施設を得ても、収入の柱は、スポンサーと入場料に限られる。プロスポーツの収益は、おおむねこの二本に支えられている。
人口が減りつづける地方で、その二本柱はどこまで伸びるのか。観客動員にも、地元企業の数にも、上限がある。大都市のクラブと同じやり方では、早晩、頭打ちになる。
もっとも、福島ファイヤーボンズはスポンサーを増やしてきた。コロナ禍で120社まで落ち込んだものを、700社規模まで戻し、さらに上積みした。地方の中小クラブとしては、目を引く伸び方だった。
だが、それでも入場料とスポンサーだけでは、黒字に届かない。そこでクラブは、三本目の柱を作った。人口の限られた地方のクラブは、これまでの収益の外側に、財源を探すしかない。
その三本目に入る前に、このクラブがどこまで追い込まれたかを、振り返っておきたい。
福島ファイヤーボンズは、震災を原点に生まれた。原発事故のあと、室内で体を動かす場として開かれたバスケットボール教室が、母体だった。やがてチームになり、練習場所を転々としながら活動をつなぐ。リーグの再編のなかでB2に所属したが、上位ライセンスをかろうじて保つのが精一杯だった。経営は苦しく、債務超過にも陥っていた。
転機は2020年。コロナ禍でシーズンが打ち切られた直後、組織コンサルティング会社の識学が、このクラブを子会社にした。スポンサーは170社から120社へと減り、ユニフォームの胸につく協賛も外れた。クラブは、そこまで追い込まれていた。
その識学から、西田は自ら手を挙げて、ファイヤーボンズに加わった。副社長を経て、翌2021年、社長に就く。経営は初めてだった。それでも、迷いはなかったという。選手としてチームをつくり、営業として数字を背負い、コンサルタントとして他社の経営改善に関わってきた。その延長に、自分でクラブを動かす場がめぐってきた。「手を挙げなかったら、後悔する」。そう直感したのを、覚えている。
立て直しの拠り所にしたのは、コンサルタントとして学んだ考え方だ。一人ひとりが、その月にどれだけ動くかを自分で決める。決めたら、やり切る。社長が一つひとつ指示するのではなく、各自が決めた量をやり抜く組織をつくる。派手な仕掛けはない。「やると決めた量を、絶対に落とさない」。その一点を、全員で守りつづけた。
スポンサーがどう増えたのか。そう問われて、西田はこう答える。「活動の母数を増やしただけです」。提案の工夫もある。だが、つまるところは行動の量だ。何度も足を運び、一件でも多く声をかける。一社ずつ、足で積み上げた。やがてテレビに出る機会が増え、観客が戻ってくると、今度は向こうから「協賛の話を聞かせてほしい」と声がかかるようになった。
地方のクラブ経営は、一般に、スポンサーを一社ずつ足すだけでは、いつか頭打ちになる。収益の組み立てそのものを、変える必要がある。その三本目の柱とは、何か。
三本目の柱は、企業版ふるさと納税だった。
ふるさと納税といえば、個人が応援したい地域に寄付する制度を思い浮かべる人が多い。だが、これには企業版がある。企業が行政の地方創生事業に寄付すると、その多くが税から差し引かれる。寄付額の9割ほどが控除され、企業の持ち出しは1割ほどで済む。
福島ファイヤーボンズは、この仕組みを、郡山市と組む地域事業の財源に変えた。
始まりは、目の前の危機への対応だった。最初からアリーナや行政連携を狙ったわけではない。コロナ禍をどう乗り切るか、目の前のことに必死だった。調べるうちに、企業版ふるさと納税に行き当たる。企業の負担が軽く、福島県の外からも寄付を募れる。落ち込んだ収入を補う糸口に見えた。
ただ、クラブが手を挙げるだけでは動かない。寄付が控除の対象になるには、行政が受け皿となる事業をつくり、内閣府の認定を受ける必要がある。事業を設計するのは、市の側だ。福島ファイヤーボンズが郡山市に働きかけ、市がその枠組みを整えた。
やがて、最初の一社が寄付に応じる。西田によれば、その額は5,000万円。企業の実質負担は、500万円ほどだったという。
この5,000万円を元手に、市とクラブは事業を進める。ここで、行政ならではの壁があった。行政の予算は、単年度が原則だ。入った寄付は、その年に使い切らなければならない。多く集まった年も、翌年に回せない。それでは、腰を据えた取り組みがしにくい。
そこでクラブは市に重ねて働きかけ、市がスポーツ振興に使える基金をつくった。年をまたいでためられるようになり、使い勝手が上がる。多く集まった年の分を、翌年以降に小分けにして使える。寄付がクラブに直接入るわけではないが、認定された事業になら、充てられる。
この財源は、使い道に幅がある。「スポーツを通じた地方創生」という枠の広い事業に充てるため、街なかのイベントにも、地域へ出向く選手の費用にも回せる。選手はボランティアではなく、報酬を得て地域に出る。だから、続けられる。年に500回を超える地域での催しの一部は、こうして支えられている。
企業の寄付が、税の仕組みを通って、市とクラブの事業に回る。施設を整えるのとは別に、制度を、街なかの催しや地域活動を支える財源にした。行政の側から見れば、寄付を充てられる事業を設計すること自体が、地域の活動を支える手立てになる。
なぜ、ここまで深く行政と組むのか。その原点は、どこにあるのか。
福島ファイヤーボンズの始まりは、勝ち負けの記録にはない。
地域の課題から生まれた組織は、勝てない時期も応援されつづけるために、何を支えにするのか。
このクラブは、震災という原点を、地域に賑わいを広げる力に変えようとしている。
2011年の原発事故は、福島の日常を一変させた。校庭で遊ぶのも、外で体を動かすのもためらわれる。そんな時期があった。行き場をなくした子どもたちのために、屋内で体を動かせる場が開かれた。バスケットボール教室である。それが2013年、チームになった。勝つためではなく、子どもに運動の場を返すために生まれた。それが、このクラブの出発点だ。
その歩みは、世代をまたいで実を結びはじめている。クラブのユースで育ち、生え抜きとして初めてトップの試合に立った選手がいる。その母は、こう漏らしたという。「ボンズが、この地にあってくれてよかった」。
震災のとき子どもだった世代が、選手になり、やがて親になる。いまアリーナで声をあげる子どもたちの多くは、震災を知らない。だが、その子を連れてくる親は知っている。このチームがどこから、なぜ生まれたのかを。原点は、世代をまたいで受け継がれていく。
手応えを、西田が語るのは今シーズンのことだ。今季の平均入場者数は、およそ4,000人。その水準は、前半戦から変わっていない。だが、中身が変わった。前半は、必死に声をかけて集めた観客だった。それが後半になると、誘わなくても人が流れ込む。無料招待の割合は、じわじわと減っていった。
あるとき、ふと気づく。最後の試合まで経営者に電話をかけ続ける——そんな自分を思い描いていたのに、その必要が、なくなっていた。「あ、広がるって、こういうことか」。子どもたちが選手の入場口に陣取り、声を張りあげる。その姿を見て、また別の誰かが行きたくなる。学校単位で「行かせてほしい」という声も出てきたという。
神戸での決勝に足を運んだときのことだ。新しく、設備の整った会場だった。それでも西田の目には、子どもの熱狂は、福島のほうがまさって映った。選手の名を叫び、ヒーローのように呼ぶ。郡山は、いつのまにかそういう場所になっていた。家族で訪れ、子どもが声をからす。その光景は、家族連れに向けて力を注いできたクラブが、育ててきたものだ。
集客に魔法はなかった、と西田は言う。テレビCMや広告では、客は増えなかった。バスケットボールは、競技人口こそ多いが、見に行く習慣は根づいていなかった。
壁を越えたのは、宣伝ではなく、一度足を運んだ人の口コミだった。会場の変化に驚いた人が、次は知り合いを誘う。700社のスポンサーがいれば、その社員と家族に届く。500回を超える地域活動を重ねれば、学校の先生も、その子も家族も巻き込まれる。母数を、ひたすら広げてきた。すぐには売上にならなかったその積み重ねが、いま観客の広がりとして表れはじめている。
駅前には、いつしかクラブののぼりが並んだ。最初はツテもなく、商店街を一軒ずつ回ってポスターを貼らせてもらっていた。それが、見かねた組合長から「ここを使え」と場所を譲られたという。試合の話を、客から聞いて慌てて調べるタクシーの運転手もいる。賑わいは、じわじわと街にしみ出している。
だから、つくった賑わいを、その日かぎりで終わらせない。宝来屋ボンズアリーナは、駅から2キロほど。歩いて回れる距離にある。郡山市と組み、街なかの店を巡ってもらう仕掛けをつくる。公園エリアや、次世代の移動手段、教育との連携も描きはじめた。Bリーグは、クラブの育ち方を段階で語る。まず試合の日に「非日常」の熱狂をつくり、それを日々の暮らしへ広げていく。「日常を非日常に。そして、非日常を日常に」。その後半の段階に、ファイヤーボンズはようやく入った。
構想を図にして市長に見せると、「面白い」と応じたという。「うちの会社も、ここで絡めるのでは」。仲間を募るための、共通の絵になりはじめている。もっとも、街の開発はクラブだけで決められるものではない。構想は、まだ描きはじめた段階だ。
駅に近い立地は、弱みでもあり、強みでもある。大きな駐車場がないぶん、車で来て車で帰る郊外型にはなれない。だが、歩いて回れるからこそ、人の流れを街に落とせる。飲食店に立ち寄り、商店をのぞく。試合の日の賑わいを、街の経済に変えていく余地が、そこにある。
西田は、目指す姿を広島カープにたとえる。広島といえば、カープ。勝っても負けても、土地の名とチームの名が分かちがたく結びついている。福岡出身の西田には、ソフトバンクホークスがそう映る。明太子やもつ鍋と並んで、土地を語る言葉になっている。地域の課題から生まれたチームが、街に賑わいを広げ、日常に溶け込んでいく。プロスポーツが、まちづくりの担い手になりうる——その一つの形が、ここにある。
シンボルとは、どういう状態か。西田は、それを定性と定量に分けて考えている。
定性とは、日常の会話にチームが現れることだ。学校で「昨日の試合」が話題になり、子どもがグッズを身につける。当たり前の風景のなかに、チームが溶け込んでいく。
定量とは、その手応えを測る数字だ。5年前、西田は3つの目標を掲げた。スポンサー500社、収容率8割、年に200回の地域活動。スポンサーは3シーズンで達成し、地域活動は年500回を超えた。残っていた収容率8割も、今シーズン、ようやく届いた。
掲げた数字には、おおむね手が届いた。だが、他県の人が「福島といえば」と問われて、その答えにチームの名が挙がる。そこまでは、まだ遠い。それでも、進む方向は、はっきりしている。
「当たり前の中に、ボンズが溶け込んでいく。それが、シンボルっていうことの一つなのかな、と」。内側からも、外側からも、「福島といえばファイヤーボンズ」と返ってくる。西田が見すえているのは、その景色だ。
プロフィール
西田 創(にしだ・つくる)
福岡県出身。東福岡高校、立教大学を経て、NECグリーンロケッツでラグビー選手としてプレー。現役引退後はNECで官公庁向け営業に携わり、立教大学ラグビー部のコーチ、ヘッドコーチも務めた。2019年に組織コンサルティング会社の識学へ転じ、2020年に福島ファイヤーボンズの副社長、2021年5月に代表取締役社長へ就任。
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前編では、郡山市の体育館が宝来屋ボンズアリーナへ生まれ変わるまでを追う。市の更新事業に、福島ファイヤーボンズが出資と運営への参画でどう関わったのかをたどる。